Orange County Buddhist Church

        仏のいのち
           
私のいのち

  「人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く」これは、我々がよく拝読し、聞くこと数知れない三帰依文の最初の句であります。

我々は、この短い一句を真剣に自分のものとして考える時、命の尊さと深さがしみじみ身にしみてくるものであります。

生命の大切さは、ただ五十年・六十年を生きている肉体だけでなく、この世の「生」を受けて無量の命をいただく、生命の尊さなのです。

釈尊がお生まれになった時、「天上天下唯我独尊」と言われました。これを一般科学的知識での見方をすれば、信じ難いことでしょう。むしろ、釈尊のお言葉、あるいわ伝説を抜き取ってしまったら、すっきりすると言う人もおられるでしょう。

しかし宗教を聞く時、特に仏教の教えは我々の科学的知識だけではなく、いわゆる「智」をもって誠の真実を見つめていくことを教えています。

では、釈尊がなぜ生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられているのでしょう。それは仏がこの世に降誕なされたということは、この私の生命の尊さを自覚させんが為なのです。

迷いを離れて悟りを得る、これを涅槃といいます。「自覚々他覚如具満」すなわち、釈尊の悟りと一切衆生がいただく悟りとは同体である、という仏の言葉が、そのまま私の生命の尊さを教えています。

浄土真宗にあっては、生まれさせて頂いたことが、阿弥陀如来の本願に遇うためであったのです。阿弥陀如来の本願を聞くことによって、本当の自分に遇えるのです。

如来さまからたまわった生命の尊さを知らせていただき、一日一日を大切に生きて行かなければなりません。故に、「仏法聞き難し、今すでに聞く」というひとときがあってもよいのではないでしょうか。

我々は、忙しい毎日を送っています。仕事のこと、家庭のこと、自分のことなどで毎日が追われています。

しかし、人間が人間として生きて行く目的は、真実に遇い永遠なるものに触れていくことではないでしょうか。

その方法として親鸞聖人は「聴聞」を〈行〉とし、蓮如上人は「仏法は聴聞に極まる」とおおせられました。

 最後に、鈴木章子さんという真宗の坊守さんが乳癌を告知されてから、四年間も死と戦い、死を受け入れようとした瞬間の詩をご紹介しましょう。

         〔生 死〕

      死というものを自覚したら

      生というものがより強く浮上してきた

      相反するものが融合して

      安らげる不思議さ・・・

 

今日私たちは生きること、生き甲斐などということを中心にものを考えてきました、そしてこれがいかにも前向きな現代的思想であるとしてきました。

しかし、この詩のように死というものを自覚し、死を心に受け入れて考えないと本当の今の生命というものがわからないのです。過去と未来がはっきりしないところに「今」はないのです。

鈴木さんの詩のように生と死は相反するものですがそれが一つになり、生死を乗り越えたところに本当の安らげる不思議、すなわち、本当の幸せな人生があるのです。

聖人はここを「生死いずべき道」として求められ、そしてお念仏の道がこの生と死を貫く救いに出遇われたのです。

            〔仲 間〕

        死という絶対平等の身にたてば

        誰でも許せるような気がします

        いとおしく行き交う人も

        なにか温かい思いがあふれでます

  どうか、今日一日の中で仏さまのいのちと私のいのちがふれ合うことの出来る、そしてお念仏を喜ぶ人生にさせていただきましょう。

               合 掌     宮地

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