Orange County Buddhist Church

女人五障(二)

 先月号は、初期仏教などにみられる〈女人〉の位置について述べましたが、今月は〈女人成仏〉〈変成男子〉について明確にしておきたいと思います。

まず、『大無量寿経』の中に仏の四十八願中、第三十五願にある願文は、

「仏の御名を聞いてよろこび菩提心を発して、女人を厭悪せん、寿終わって後に復た女像とならば正覚を取らじ。」

即ち、女人は鬼にもなり、大蛇にもなる魔性の身であることを厭うて、菩提心を発起すれば、いのち終わって後また、女像とはならないと誓ってあるのです。

さて、次に『大阿弥陀経』の経典にある二十四願には、〈変成男子〉が出てきます。

「もしも、わたくし(仏)が、成仏したときは、仏の国土には女人は存在しないだろう。この仏国土に往生しようと願う女人はすべて男子に変身するであろう。」

遠く仏教徒は、この願文を〈変成男子〉とみたのでありますが、こうして並べてみますと〈女人成仏〉とは、どうしても結びつかないのがおわかりになるでしょう。

要するに、女人は浄土で男子に生まれ変わる(もしくは、男子に生まれ変わって浄土に在す)という男性上位・優先ではないことが明らかになります。

むしろ仏さまの目からは、〈女人〉は男よりも肉体的(古来の懐妊・出産なども含む)に苦労が多く、また社会的苦悩が深いが故に、仏さまはわざわざ〈変成男子〉の誓願をたてられたのであります。

私は、仏典などを拝読するときいつも気を付けて《慈悲》の心を通して読ませていただかなけれ、誤解することが多々であります。

たしかに、女人は先月号に述べましたように五障をかかえております。また三従と申しまして、親に従う・夫に従う・子に従うという大きな義務と責任があります。故にこれらは、仏道修行にはあわずと原始仏教から伝えられて来ているのです。

しかし、釈尊のご精神から伺えば決して女人の区別を説いておられないのです。この事は特に大乗仏教では大切にし、『維摩経』『勝鬘経』にもはっきり男女の区別を排除されていることを明確にしておきます。

 結 論

では、何故このように仏教の歴史の中で〈女人〉の位置・成仏について誤解されてきたのでしょう。

一つは、インド・中国・日本の歴史には悲しいことですが、男性優位・男尊女卑がまかり通っていたこと。

二つ、初期仏教では、「行」が最も大切であり、難行苦行に女性は肉体的についてこられなかったこと。

三つには、修行より女性としての務め、女性らしさを貴重としてきたこと。

すなわち、仏教では「ある」ことと「成る」ことを分けて解釈するのです。

仏さまのお慈悲と智慧としての名号すなわち、南無阿弥陀仏を素直にいただくことによって、女であることから、やがて柔軟心を知らされ、女に成る ことが約束されてくるのです。

男は男らしく、女は女らしく成ることを心がけていくことをこの〈女人成仏〉・〈変成男子〉から学びたいものです。 

また別の機会に一体らしいとはどんなことかをお話させていただきましょう。

宗祖親鸞聖人は、釈尊のお心を間違えることなく領解されまして、

  願以此功徳 平等施一切

  同発菩提心 往生安楽国

(仏さまの願いは、生きとし生けるものの全てに平等に行き渡り、その仏さまの願心をいただきたいと念じた時、一人も残ることなく浄土に生まれ、仏に成るのである)

と明確にされておられます。

また、『歎異抄』では、

「彌陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがため願にまします」

仏さまの願には、何一つ差別・区別が無く、一切のものが救われていく道が浄土真宗であるとはっきりされておられるのです。

合掌 宮地

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