Orange County Buddhist Church

本願寺第十一代門主
   
                   顕如上人 その二

あらゆる面で大きな勢力をもった本願寺は、天皇家からも協力を求められるようになりました。

そして、正親町天皇の時に顕如上人の貢献に対して、本願寺を「門跡」(天皇家・貴族が子弟として入る寺)に任ぜられたのです。

しかし、時代は戦国大名達が互いに天下を制圧する機会をねらっていました。越後に上杉謙信・甲斐の武田信玄・相模の北条・三河の徳川・尾張の織田・越前の朝倉・近江の浅井・四国の三好・中国の毛利などでした。

時は、織田信長に勢力が移りつつありました。織田にとって脅威なのは本願寺の力です。

そこで信長は、政略の一つとして、本願寺に色々な難題を押し付けてきました。例えば、本願寺に矢銭(税金のようなもの)として五千貫(当時、五千貫は膨大な金額である)を割り付けてきたのです。

顕如上人は、信長との戦いをさけるため、あらゆる尽力をされました。そのご苦労は、上人が阿波(徳島県)の坊主衆・門徒衆にあてた次の書状でうかがえます。

「近年、信長たびたびの難題いまだやまず。この時、門下の輩寸志を励むにおいては仏法興隆たるべき候 諸国錯乱の時節さだめて調がたく候へども旨趣を申しのべ候」

本文は、本願寺四〇〇年記念出版として発行された「図録顕如上人余芳」より引用)

とあり、信長に納めるべき矢銭を寺や門徒衆に協力を求めておられます。

しかし、元亀元年(一五七〇年)九月遂に、本願寺は信長との戦に突入し、いわゆる「石山合戦」が開始するのです。 

天下制覇の野望に燃えた信長は、将軍足利義栄の病没後  京都に入ったのですが、これには二つの理由がありました。

一つは、足利義昭を将軍につけることであり、二つには、大坂 石山本願寺を本格的に攻めるためでありました。

明智光秀・細川藤孝・原田直政・荒木村重・筒井順慶らをつかわし大坂を包囲しました。

これに対して本願寺は、紀州門徒を中心に真宗の門徒衆が守りに立ちました。こちらは戦術には素人衆でありましたが、浅井久政・長政・三好の三人衆(四国)などが本願寺についたのです。

しかし、信長・明智・細川の軍勢は強く、石山は完全に近く包囲されたのです。

この時より石山本願寺は「篭城」に入るのですが、問題は兵士達の食料・水・武器などの補給と外との連絡です。陸は完全に包囲されています。

この時、瀬戸内海、木津川、堺から毛利輝元の大船団が現れ石山城に必要な物資を届けたのです。毛利軍は、紀州の警固船隊と共同して海路を開いたのです。

海に弱力であった信長は、これには驚きましたが早速、海上戦術を強化しました。この模様は、あるキリスト教宣教師の『耶蘇会士日本通信』の記録書に

「昨日、日本の重要なる祭日(盂蘭盆会)に信長の船、堺に着きたる。信長が伊勢国において建造せしめたる日本国中最も大きくまた、華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり、予は行きてこれを見たるが、日本において此のごとき物を造ることに驚きたり、信長がその建造を命じたるは四年以来戦争をなせる大坂の河口にこれを置き、衛兵または糧食を塔載せる船の入港を阻止せんがためにして、これよりて大坂の市は滅亡すべしと思わる。船には大砲三門を載せたるが、また無数の精巧にして大なる長銃を備えたり」と書かれています。

信長と石山本願寺の戦は、一進一退を繰り返し約十一年間という長い間続いたのです。

信長と顕如上人は、ついに朝廷(前関白近衛前久)を動かし平和工作に入り、天正八年(一五八〇年)三月に和平が成立しました。

長いこの両者の戦の間で、何万人ともいえる人たちが亡くなったのです。

この戦国時代そして、世の中が大混乱をしている時代に、本願寺を必死で守られたのが、第十一代ご門主であられました、顕如上人とそのご門徒衆でした。

現在の本願寺 浄土真宗は、これらの方々の貴い命の犠牲の上にあることを忘れてはならないのです。     

合掌   宮 地

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