Orange County Buddhist Church
菊と刀 「最終回」
日本人の持つ伝統的な思想・哲学・精神と、西洋(アメリカ人)のそれとの違いをルースベネディクト著の「菊と刀」から学び、その両者間におけるギャップが、現代の私たちアメリカに在住する日系人にどのような影響があるかを二回にわたって述べてきました。
今月号をもって一応最終回にさせていただきますが、私がここに紹介しましたのは、ほんの極一部にしか過ぎないことをご了承していただきたいと思います。
「菊と刀」では、まだまだ多方面の視野より違いが書かれています。
さて、今月号の最終回では日本人の持つ独特の思想である「義理」について述べながら、先月号の続きである「恥」、「恩」等を関連させて進めていきます。
「義理」と云う言葉は、西洋で云う「義務」に該当するしかありません。しかし、両者は全然違った意味なのです。
義理は日本の昔、武士の時代から日本人の心に根ざしている一つの「道徳感」であります。
しかし、義務を果たすと云うことは一つの事の責任が果たされ、その事が終了・完了したことになります。
少し深く云えば、西洋人が読むバイブル(東洋人も読みますが‥)の一つに〈モーゼの十戒〉があります。義務の観念は、この十戒の道徳的規則に従うことに同意されます。
それに対して日本人の云う義理を尽くすということは、大きく次の三つの特徴が上げられます。
第一に、義理は「恩」をもって返す必要があります。
義理は「恩」をもって返済しなければならないのです。もし、義理ある人に恩を返さなければ、その人は一生涯恥を背負わなければなりません。
この習慣は決して古い時代のものではなく、現代の日本の社会に受け継がれています。今でいう縁故・コネもそれに当たるのです。
「あの人には義理があるから、あの人の息子をどうしても内の会社に入れなければならなかった」といったケースは、今日も罷り通っています。
これは「義理」と「恩」の関係であります。これにまた「忠義」を尽くすという絡み、代々と連続されて行くわけです。
第二は、義理は道徳的善悪や正義を越えて遂行される時があります。
特に侍・武士魂は、義理を真理として自分の命の置き所にします。
よって、日本の武士階級が支配していた封建時代は、この義理のために多くの女性や子供が犠牲となり悲劇がうまれました。
例えば、お家安泰のために小さな子供を養子(実際は人質)として差し出さなければならなかったり、また国家安泰のために幼い娘の政略結婚が行われました‥、こういった悲劇は日本の能楽や歌舞伎・雅楽の多くの物語として今でも語り継がれています。
日本人はどちらかと云えば、こういったセンチメンタル的な物語に感動するのです。
一般的によく云う日本人にとって〈良い映画・芝居〉などは、いわゆる泣かされる物語が多いのです。
西洋人の〈良い物語〉は、心が温まるといいますか楽しいものを指す場合が多いのです。
第三は、義理は忠義を尽くすことに絡まり、終わりはなくいつまでも尾を引きます。
西洋の義務の観念は、これとは大きく違って、こういった連続性があまりないこと、また道徳・正義の範疇を越えることはありません。
ルース ベネディクトは「菊と刀」の中で、いわゆる一般にヤクザの世界で使われている低級な義理・忠義・恩などとはっきり区別しています。
この区別を日本の有名な物語であります〈弁慶と義経〉の《勧進帳》を引用しています。そして弁慶の忠義と義経の慈悲をあらわし、上手く説明しています。
この物語は、すでに皆様の方がよくご存知のことと思います。
ごここでは紙面の都合上、この弁慶と義経の《勧進帳》の物語を詳しくご紹介することは出来ませんが、
簡単にお話しますと‥。
すなわち、弁慶のとった手段が主君義経の命と一行の命を救ったとしても、敵の代官を欺く為の一時的手段とはいえ、主君に対して家来が口汚くののしり、顔や頭を打ち、この一行の一人が義経ではないことを代官に納得させても、この行為は「忠」に対してのまたは、「義」に対しての違反なのです。
義経一行が無事関所を通り抜けるや、弁慶は義経の足元に身を投げ出し、切腹を願うのですが、主君義経は慈悲深く赦してやるのです。
この物語のこの場面(勧進帳)は、最も見せ場の一つでありますが、西洋人にとっては非常に理解しにくいところだといえます。
芝居の上の物語としては理解が出来ても、それは〝成功の物語〟でありながら何故か、弁慶があやまり、切腹しようとするのが不可解なのです。
日本人は、この《勧進帳》の物語を何の抵抗もなく理解し感動するのです。これは義理・忠義の心が流れている物語であり、その心の奥には愛と慈悲があったことを汲み取らなければならないと思うからです。それはやはり、日本の思考・哲学・精神が自ずから背景として自然のうちに身にしみ込んでいるからです。
さて今日、このアメリカで日系人としてまた日本人として、それぞれのもつ思想・哲学・精神をお互いに日常生活の上やそして、社会団体の中また、異文化の中でどのように使い分け、役立てていくことが出来るかはこれからの私たち一人一人の大きな課題であり、責任があるように思われます。
「私は私の生まれ育ったままの考えで、私流の精神(生き方)で行きます」という独占的思考な我侭は、大変危険であるといえましょう。
また「私は何十年もこのアメリカに住んでいるから、日本の文化もアメリカの文化も知っている」と自惚れて平気でいる人も見かけます。
今一度、自分の生きる方向を示す基盤である思想・哲学・精神を振り返って、良いところは大切に、悪い意味での古い日本的な考えは直し、これから先の私たちの人生が寂しい生き方にならないように、この「菊と刀」から学びたいものです。
合 掌
宮 地
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