Orange County Buddhist Church
聴 聞
私が学生の頃、あるお寺のご法座に「歎異抄に聞く」と題が掲示されていました。私は、はじめ「歎異抄を聞く」の間違いではないかと思いました。しかし、よく考えてみますとこの題は大変意味深いことに気づかされたのです。
先ず、第一に「歎異抄を聞く」ならこの私が主体となって聞いてやるという自己主張があります。これは本来の浄土真宗の聴聞の姿勢とはいえないのです。
真宗の聴聞とは、命がけで『歎異抄』を「ユルサレテキク」という姿勢でなければならないことに気づかされたのです。
私たちの五感は、耳(聴覚)・目(視覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・触(触覚)でありますが、どれも大切な働きをするものばかりです。今日は、視覚と聴覚の二つについてお話を致しましょう。
― 目(視覚) ―
私たちは毎日、テレビ、新聞、ビデオなどをはじめ視覚酷使でありますから、現代人は[見る]ということに頼りすぎて自分に見える世界以外信用出来ないという人が多いのです。
ここに現代人の大きな自信過剰があり、自分が一番正しいと思い込んでいるのです。現代人の不安・孤独はそんなところに原因があることに気づかなければ、いつまでたっても本当の原因解決には成りません。
皆さまの中にも経験されたことがおありでしょうが、誰か親しい方が亡くなっていく、また親しい方と別れなければならない時など、いつも顔を合わせていた人が突然消えるということは、大変な心の空洞感や何とも云えない寂しさと悔いが残るものです。
これらは、私たちが知らないうちに目に対して絶対的な信頼感というものをおいているから、返ってそれが視界から突然消えた時に大きなショックであり、自己のもっていた信頼感が総崩れになるのです。
また見えるものだけを信頼するということは、大変危険であるという事です。それは私たちの目は、時には錯覚をするからです。
目は、本当に全てを見ているのでしょうか。
例えば、私たちは多くの人々に囲まれて生きています。家族・友人・色々の団体・近所の人々に囲まれて毎日を送っています。
さて、その周りの人々と比べてまさか自分がその中で一番先に死ぬとは・・・、時には冗談まじりに「一番先に死ぬ」と言っても本心ではそう思ってはいないのが本当なのではないでしょうか。
これは、死というものが我々の前方(視覚)からやって来るように思うからなのです。よく私たちは「だんだん死が近づいて来る」と言いますが、死は前からやって来るのではなくヒョッコリ後ろからやって来るものなのです。
無常の風は決して人様のお葬式の時だけの言葉ではなく、常に私たちの周囲でいつも吹いていることに気づかせて頂くご縁がお葬式なのです。
― 耳(聴覚) ―
耳の発達は、赤ん坊が母親の胎内にいる時からはじまっています。目より耳の方が早く発達、働きはじめるのだそうです。
耳は、現象的な世界を認知することが出来ます。音の世界・声の世界を聞くということは、そこからもう一つ深い世界に入って行くことなのです。その世界は、芸術の世界とか宗教の世界ということも云えます。
俳人芭蕉は、この聴覚を重んじた人です。
古池や蛙とびこむ水の音
静かさや岩にしみいる蝉の声
などは、視覚を通して聴覚の世界を詩っています。
また、例えば海について言えば、ただ海を目で見るだけと違い、目を閉じて海の音を聞くとそこに海の命と申しますか、何か心に響くものが伝わってきます。この響きの世界は、人間の心を育て、深くは宗教の信仰というものを目覚めさせます。
では、耳の聞こえない人は、宗教的世界に入ることは出来ないのかという疑問もあるでしょうが、それは大きな間違いで、音の世界のない人ほどこの響きの世界については敏感なのです。
現代人のもつ悩み・苦しみ・淋しさの原因は、見るという事にあまり気をとられて全てのものを静かに聞くということを疎かにしたところにあると思うのです。
宗祖親鸞聖人は、仏教では欠かすことの出来ない『行』を私たちの為に、伝統的な仏教の難しい『行』から『聞』に置き換えて下さったのです。
聖人は『聞』という字に訓を託され、そこに「ユルサレテキク」という左訓をされました。ユルサレテキクということは、受け入れられている世界を示します。
私たちが仏教会などでお説教を聞くということは、仏さまの《必ず救うぞ》とお誓いになっておられる声なき声を全身で聞かせて頂くという事なのです。
お経さまを読んでいる時は、仏さまの姿なき姿を心に受け入れて「ユルサレテキク」ことなのです。
蓮如上人は、ここを真宗は「聴聞につきる」とお示し下さいました。
私もこれより、聞いてやっているという態度から「ユルサレテキク」聞かされている慶びをかみしめて「聴聞」に励みたいと思っております。
「今、求めるもの」龍谷ブックス60大田利生より参照
合掌 宮地
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