Orange County Buddhist Church
日々是好日
「日々是好日」は、禅僧雲門師の『碧厳録』と言う書の中の公案であります。
「十五日已前は汝に問わず、十五日已後一句を持ち来たれ」自ら代わって曰わく「日々是好日」
この問答は、禅の世界でも大変難しい公案の一つとされています。
雲門という僧侶の師は、陸州道明師であります。道明師は、黄檗・臨済などの系列で中国では名高い禅僧の一人であります。
その雲門師がある日、弟子達に向かって投じた公案が前記したものです。
「十五日已前は汝に問わず、十五日已後…」と云うのは、中国の禅の行事で十五日は説教・問答の日にあたるのです。よってこの文の十五日とは、“今”この現在をいうのです。
十五日已前というのは、昨日すなわち“過去”を指し、十五日已後とは明日すなわち将来を指すのです。
つまり、雲門師は説教を弟子たちにし、次の様に問うたのです。
「今の心境を一句にして云ってごらんなさい」弟子たちは、お説教(公案修行)の真っ最中の気持ちを一句にしてどのように云えば良い答えになり、雲門先生を満足させる事が出来るかを考え込んでいました。
公案の時の答えは、丁度難しい試験を受けている時のようなのもですから、うっかりいいかげんな答えを云ったらそれこそ「喝」が飛んで来るのです。
弟子たちの答えが一向に返ってこないので、ついに雲門師が自ら答えられたのです。それがこの「日々是好日」です。
雲門師は自分で問い、自分で答えたことになるのですが、禅の世界ではよくあることなのです。
釈尊もある教典に自問自答しておられるところがあります。
さて「日々是好日」とは、色々な人がさまざまな解釈をし、よく使っておられますが時には雲門師が云ったこととは外れて受け取られている場合があります。
雲門師の「好日」とは、楽しい日とかうれしい一日だけを指すのではないのです。禅では「好事も無きに如かず」と云い、これは好いこと、うれしいことが無くてもまたこれ良しという心境に至れと進めるのです。
特に仏教・禅では、一時的なものにゆだねる心を嫌うのです。
我々の人生における幸せ・好事は、そういつまでも長続きするものではありません。ほんのつかの間の幸せ・うれしさを日夜追いかけているので,
例えそれを手に入れたとしても永遠絶対なるものではないのです。
仏教は、私たちの一般的好事・幸福を否定しているのではなく、幸福な時は幸福をうんと噛みしめればよい、うれしい時は喜べばよい。しかし、それにとらわれてはならない。そればかりにしがみついていればそれは執着であり、今度は己の執着から次の幸せを追いかけていつまでも本当の安らぎの人生が見いだせないことを教えているのです。
禅の世界で絶対永遠なる幸せとは、「悟り」以外に無いのです。もちろん、この悟り自体にも執着しないのが禅の奥義です。
さて、話を「好日」に戻しましょう、雲門師が云う好日とは、例え悪い日であろうと、悪い事が起こった日であろうとそれにはとらわれず、自然に生きなさいと教えているのですが、注意しなければならないのは雲門師の云う自然に生きるは、あきらめや生き甲斐の無い人生ではなく、目的もなくフラフラと一日を過ごすことでもなくまた、悪い出来事を無理に好いことに変えよと云ってはいないのです。
よく人は良い想い出・楽しい想い出はいつまでも心に置いておきましょうと云います。それは普通に云えば当然のことでありましょう。
しかし、雲門師は「良き事」に執着することは「悪い事」もくよくよといつまでも心に残すことになる、そこから苦しい人生や不満の日々になるのだと教えているのです。
禅の話になってしまいましたがでは、浄土真宗ではどうなのでしょう、と聖人に聞きますと、
「しかれば、本願を信ぜんには他の善も要もあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに悪をもおそるべからず」『歎異抄』
とはっきりされています。
“念仏者は無碍の一道”を歩みます。宗祖はさらに『歎異抄』の中で次のように云っておられます。
「自然のことわりにて柔和・忍辱こころいだくべし」
と、自然な心の生活を進めておられます。すなわち、お念仏のあるところ必ず「日々是好日」にさせていただけるのです。
不平・不満・悪口などが出る時、「好日」に恵まれていないんだなぁーと、心新たにさせていただき「和顔敬語」で柔和な心で、自然法爾を慶ばせていただきましょう。
合掌 宮地
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