Orange County Buddhist Church
信仰は、賭けである
西洋の哲学者パスカルは、神を信じていない人にむかって「瞑想録」の中でこう云っている。
「あなたは神さまを信じていない。信じていないけれどもいま幸せだ。しかし、神さまを信じる方に賭けたらもっと幸せになるだろう。
だからあなたは神さまを信じる方に賭けなさい。もし、神さまがいなくても元々ある。もし、神さまがいたらもっと幸せになれる」
さて、次に宗祖親鸞聖人の「賭け」を聞いてみましょう。
『歎異抄』の中に
「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて、存知せざるなり」
真に宗教には「信仰の賭け」という経験が必ずある。
人生ギリギリに立たされた時、賭けを経験する多くの信仰の告白はこの賭けに勝った人の経験・体験から出てくるものである。
さて、ここで西洋のパスカルの「賭け」と聖人の「賭け」とを少し比べてみましょう。
パスカルの「賭け」は、絶対に損をしない賭けである。それは丁度、子供達が遊ぶゲームである。負けても勝っても「賞品」はついてくるようなもので、大人にとってはあまり面白いものではない。しかもこの思想の底には、西洋の功利主義がのぞいているように思われる。
その点から考えると、親鸞聖人の「賭け」は素晴らしい。
お念仏ひとつで極楽に行けるかもしれないし、地獄へ行くかもしれない。
それでも聖人は、全生命を弥陀の本願に賭けられたのである。
賭けというものは、こうでなければ本当の賭けとは云わないのである。
そのものに賭けて金持ちに成るか、すってんてんになって全てを無くすかが、賭けの妙味である。
信仰とは丁度このようなもので、仏さまにこの私の生命を全て賭けることなのです。
信仰とは、ゲームで得られるものではないのです。これは真剣勝負なのです。
親鸞聖人の賭けは長かったのです。
九歳の時に出家得度され、二十年間比叡山での修行・学問で「生死いづべき道」を目標にされお命を賭けられたのです。賭けても賭けても聖人の賭けは勝たなかったのです。そして、聖人はほとんど全てのものを無くし、最後の二十五銭だけを持って山を下りられたのです。
その時法然上人との出会い、お念仏のご縁にあわれたのです。聖人は、最後の二十五銭をこの法然上人に賭けられたのです。
この時の聖人のお気持ちは、真剣そのものであり、悲壮なものであったのです。
そして、見事に親鸞聖人は聖人の賭けに勝たれたのです。
それは圧勝であり、聖人の賭けの勝ちは八〇〇年の今日、いまだに続いているのです。
聖人は、私たちにまでその勝ちを分け与えて下さっているのです。
「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりともさらに後悔すべかたずさふらふ」
合掌 宮 地
May 2007
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