Orange County Buddhist Church
往相・還相の廻向
親鸞聖人がお書きになった『教行信証』の最初に、
『謹しんで浄土真宗を按ずるに二種の廻向あり。一つは往相、二つは還相なり』とあります。
このご文は浄土真宗のみ教えの大切なところであります。
まず最初の「往相の廻向」は、衆生が仏さまのみ教えを他に伝えつつ共に浄土に向かう相たを言うのであります。
「還相の廻向」とは仏さまのお慈悲と智慧が、衆生に降りてくる相たのことであります。これは曇鸞大師の「浄土論註」にあるものを解釈され、聖人の教義の要とされたのであります。
この廻向についての教義的解釈は、天親菩薩の『浄土論』から曇鸞大師の『浄土論註』そして、親鸞聖人の『教行信証』と開いていかなければならないのでとても難しいのもになります。
そこで、この往相・還相の廻向をわかりやすくするために、次のお話をご紹介したいと思います。
(このお話は本願寺新報の二〇〇一年九月号に、清基秀紀先生がお書きになられた「声が聞こえる」という項の中の、お葬式と言う題の記事を一部引用させていただきます)
「赤ちゃんへの手紙」
・・・略 内輪だけの葬儀に、弔電や弔辞のような儀式めいたものはなく、赤ちゃんを送る言葉として、お母さんが書いた手紙が読まれました。とても自分では読めそうになかったお母さんに代わり、お父さんによってその手紙は読まれました。死にゆくわが子を見つめながら書かれた三通の手紙は涙をさそいました。しかし、その手紙の中でお母さんはこんな言葉を赤ちゃんに贈ったのです。
「あなたは私たちの子どもとして生まれてきました。しかし、毎日泣くばかりで微笑み一つ返してくれることはありませんでした。あなたは私たちに、悲しみと苦しみしか与えてくれなかったかのようです。
しかし、命が長くないことも知らないあなたは、手足をバタバタさせて、毎日一生懸命に生きようとしていました。私はその姿に、やがて感動を覚えるようになったのです。私は何十年と生きてきて、はたしてあれほど懸命に生きようとしたことがあっただろうか、与えられたこの命を本当に大事に生きてきただろうかと、あなたの姿に反省させられたのです。
あなたは私たちに喜びは与えてくれなかったかもしれません。しかし、私はあなたから、もっと大切なことを教えてもらったのです。あなたが私たちの子どもとして生まれたことを感謝します。○○ちゃん、生まれてきてくれて、本当にありがとう」
火葬が終わり、小さな小さなお骨をひろい、火葬場からの帰途についたとき、「ありがとうございました。ようやく落ち着きました」と、お母さんが静かな口調で礼を述べました。
葬儀は儀式にすぎないかも知れません。しかし、誰もが悲しみを共有し、とても大切なことを学んだ一日は、私にとっても忘れられない大切な時間でした。
「仏の声を聞く」
私たちは人の死に出会ったとき、何を学ぶのでしょうか。
話すことの出来ない赤ちゃんは、私たちに教えを説くことはありません。しかしその死から、命ということ、生きるということをお母さんは学びました。限られた命を精いっぱい生きる姿を見て、私たちもまた本当は、限られた命を生きているのだということに気付くこともあるでしょう。大切なことを教えてくれた赤ちゃんを、還相の菩薩であると感じる人もいることでしょう。同じ経験をしても、人によって学ぶことは違います。何を学ぶかは、私たちの問題なのです。
私たちが仏さまに手を合わせる時、仏さまは何にも語られません。しかし、お浄土からの呼び声は確実に私たちに届いています。それを聞くのは、その声を心で受けとめるのは、私たちなのです。
阿弥陀如来は、すべての人を浄土へ救いたいという大悲の心で、つねに私たちに呼びかけられておられます。その本願は、この私のためであったのだと喜ばれたのが親鸞聖人です。すべての人のための本願が、実は私たち一人ひとりのための本願なのです。そのことが心から喜べるのは、私たちが阿弥陀如来の本願を心から信じ、その声を素直に心に受けとめる時なのです。
このお話しは、浄土真宗のみ教えの大切な往相・還相の廻向を実に正確にかつ解りやすく教えて下さっていると思うのであります。終わりに私の最も好きな言葉をご紹介して、今月のご法話を閉じさせていただきます。
信仰とは姿なき姿を見
声なき声を聞くことである
合掌 宮地
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