Orange County Buddhist Church
たたり
私たちは、よく「たたり」と云うことを耳にしたり、信じたりします。
「たたり」とは「祟り」と書きます。「山」と「示す」ですから、山は神のことであり、「示す」とはそこから出てくるものであります。故に「神が人をいましめるために出し示すわざわい」のことであります。
このように古代の人は病気や災難・不幸などを神や霊の「しわざ」と考えていたのです。現在でも「うらみを残して死んだ人の霊がさまよって出てくる」または、「先祖のたたりで子孫が不幸なめに遭う」「幽霊・亡霊・人魂」が存在するなどと信じている人が以外に多いのです。
〝ゆうれいや よくよく見れば 柳かな〟 であり、人魂も今日の科学ではリンが燃焼して起こるものと判明しています。
一九八八年の「読売新聞」の調査でも「霊のたたり」があると答えた人は30%、「霊のたたり」はないと答えた人は30%、「どちらともわからない」と答えた人が40%、「ある」・「わからない」と答えた人を合わせるとなんと70%にもなるのです。
近代科学の発展と人間の心の発達は、何かひらいて行く一方にあると思われます。
人間は弱いものでこの「たたり」があると信じた人は、どうしてもそれから逃れたいと思うのです。そこで「呪い」「祈祷」「占い」などが繁盛するのです。
さあ、今一度よく考えてみて下さい。そういったあらゆる霊に祟りに苦しめられている姿こそ、まさに「たたり」そのものなのです。そのような姿を「真実に暗い」または、「自己の暗さ」によって自ら作り出していることに浄土真宗は気づかせてくれるのです。
仏教では「暗さ」を「闇」と教えるのです。「闇」とは「真実に暗い者」「明かりがない者」のことでありますから、自分のまわりがどうなって自分がどう進んでいるかわからないことを云うのです。
故に闇の中の人は、相手の出方次第でどのようにでも反応する恐ろしい心を持った人と云うことになりましょう。
「闇」の反対は「明」であります。「明」はものの道理にあかるく「智慧」を持った人であり、「智慧」ある人とは、学者でもなければものを多く知っている人でもないのです。
「知恵者」とは、いつも「絶対」なる真実を求め続けている人のことであり、絶対不偏なる「命」と永遠なる「光」の存在を知っている人なのです。
この「明」をもつことは、人間の「暗さ」によって「たたり」や「迷信」に人間自身が迷わされていることに気づかされるのです。
聖人は、和讃の中で「七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏をとなうべし」と云いきっておられるのです。
「祟り」「病気」「災難」「不幸」などは、決して神や霊などの「しわざ」ではないと申し上げたいのです。
また、恨みを残して死んだ人の霊がさまよって「たたり」に遭うということなどはないと、念仏者ははっきり心にすえて置かなければなりません。
『教行信証・信巻』には〈貴方が称えるお念仏に諸仏が護念されておられるのです…〉とあります。
また聖人は、『嘆異抄』で「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍すること罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえなり」と言っておられます。
解りやすく云いますと・・〈お念仏は自由なそして大きな力があります。お念仏する人は天地の神々まで敬いをいたし、その人を妨害する事は悪魔(仏教以外の教え)であろが外道であろうが、出来ないのです。(以下を略す)…〉
さあ、もう心配は要りませんね。どうか「たたり」などに惑わされることなく、人生を堂々と明るくそして強くお念仏とともに送りましょう。
合 掌 宮 地
![]()